100年前
日本美術史を揺るがす大事件が起こった
「絵巻切断」
大正8年12月20日
益田孝(鈍翁)邸・応挙館
一枚一枚の歌仙絵の運命は
くじ引きに託された・・・

流転(ドラマ)の始まり!

 大正8年(1919)12月20日、当代一流の財界人や茶人数十名が、品川・御殿山の「応挙館」に集まりました。「絵巻切断」、運命の日です。佐竹本は、2年前の大正6年に佐竹侯爵家から「虎大尽(とらだいじん)」と呼ばれた実業家・山本唯三郎(やまもとたださぶろう)(1873~1927)に売却されましたが、経営が暗転したため再び売りに出されました。しかし、この高額な作品を単独で購入できる人物は見つかりません。文化財保護の法整備も十分でない当時、海外流出の恐れさえありました。


 そこで、当時の経済界の中心人物にして「千利休(せんのりきゅう)以来の大茶人」と呼ばれた益田孝(ますだたかし)(号・鈍翁(どんおう)、1848~1938)たちが発起人となり、《佐竹本三十六歌仙絵》を分割し、共同で購入する方針を決定します。呼び掛けに応じて集まった財界人や古美術商たちは、それぞれ抽選くじを引いて、自身の購入する歌仙絵を割り当てられることになりました。三十六歌仙に《住吉大明神(すみよしだいみょうじん)》を加え、三十七枚に分けられた絵巻の断簡。各図の価格は事前に差をつけて決められていましたが、高価でも人気の歌仙を入手したい一心で、神仏に願う者もいたと伝えられています。こうして、誰にどの歌仙が当たったのか、悲喜こもごものドラマが生まれました。

誰もが女性の歌仙を求めた

華やかな十二単(じゅうにひとえ)をまとう女性の歌仙は、コレクターたちの人気も集中し、価格も高くつけられました。この「小大君」には、4万円の「斎宮女御(さいぐうのにょうご)」、3万円の「小野小町(おののこまち)」に次いで高額な、2万5千円の評価が与えられます。本図の最初の所有者となったのは、本年没後80年を迎える製糸商・原富太郎(はらとみたろう)(号・三渓(さんけい)、1868~1939)でした。

重要文化財 佐竹本三十六歌仙絵 小大君(こおおきみ)(部分) 鎌倉時代 13世紀 奈良・大和文華館


財界人の愛した歌のこころ、茶のこころ

みよしのの 山の白雪 つもるらし
ふる里さむく なりまさりゆく

吉野の山に雪が積もり、里の寒さが増していくことを(うた)ったこの歌。是則の少し赤い頬も、歌を踏まえると寒さのためかと想像したくなります。さらに興味深いのは、鹿の住む雪山を描いた中世の絵画を切り取って表具に仕立てているところ。歌、肖像、表具が一体となって季節感を演出するこの作品は、冬の茶席によく合う一幅といえるでしょう。益田孝の弟・英作が最初の所有者。

重要文化財 佐竹本三十六歌仙絵 坂上是則(さかのうえのこれのり) 鎌倉時代 13世紀 文化庁


100年愛され続けた家宝

流転を繰り返した佐竹本の各断簡ですが、最初の所有者の家を離れないまま100年の時を過ごしたものもあります。そのひとつが、住友(すみとも)家に収められたこの一図。十五代住友吉左衛門友純(ともいと)(号・春翠(しゅんすい)、1865~1926)が入手したのち、流出することなく今日に伝えられました。

重要文化財 佐竹本三十六歌仙絵 源信明(みなもとのさねあきら)(部分) 鎌倉時代 13世紀 京都・泉屋博古館


安住の地を求めて

ホトトギスの鳴き声を聞きたくて、山路にじっと留まるうち日が暮れてしまったと詠う公忠を描きます。しかし、和歌の内容とは裏腹に、本図は所有者を転々としました。最初は、大阪の藤田(ふじた)組創業家の一人・藤田彦三郎(ひこさぶろう)が引き当てますが、その後、倉敷紡績を設立した岡山の大原家に入り、さらに萬野汽船の萬野裕昭(まんのひろあき)のもとに移りました。そして2004年には、萬野美術館のコレクションが臨済宗の名刹・相国寺に寄贈されます。公忠もようやく京都の地に落ち着き、静かに耳を澄ますことができたのかもしれません。

重要文化財 佐竹本三十六歌仙絵 源公忠(みなもとのきんただ) 鎌倉時代 13世紀 京都・相国寺

100年の流転(ドラマ)

 各所有者のもとに散り散りになった佐竹本。「切断事件」が一種の伝説となったことで、その価値はいっそう高まって、なかなか目にすることのできない“秘宝”となりました。とくに茶人にとって佐竹本を持つことは最高の憧れであり、ひとたび茶会に掛けられると大いに話題となりました。しかし、戦争、高度経済成長、バブル……激動の日本近現代史の片隅で、多くの佐竹本がその所有者を変えていきます。そこでは、新たに手にする人物と、泣く泣く手放す人物が織りなす、記録されることのないドラマが繰り広げられました。


 それぞれの佐竹本は、近年では美術館など法人所有となり公開の頻度が高くなったものも多くありますが、世に出る機会の極めて少ないものが依然として存在します。そして残念なことに、流転の末に行方知れずになってしまったまま、今日に至るものさえあるのです。


益田孝(ますだたかし)(鈍翁(どんおう))

《佐竹本三十六歌仙絵》分割の主導者。旧三井物産初代社長。日本経済新聞の前身「中外物価新報(中外商業新報)」を創刊するなど、近代日本経済界の重鎮でした。茶人として、また古美術の収集家としても名高く、国宝《源氏物語絵巻》(現・五島美術館)をはじめとする名宝を数多く所有していました。

鈍翁80歳、掃雲台にて。
写真提供:鈍翁in西海子


応挙館(おうきょかん)

応挙館(外観)
応挙館(内観)

大正8年(1919)12月20日、《佐竹本三十六歌仙絵》の分割がおこなわれた、鈍翁の邸宅。呼称は円山応挙(まるやまおうきょ)が描いた障壁画で飾られていることに由来し、当時は東京・品川区の御殿山に所在しました。昭和8年(1933)に、東京国立博物館に寄贈され、今に至ります。